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 郷土の道しるべ
 保田與重郎 (『図書館だよりvol.120』掲載分)

郷土資料室には、桜井市出身の文芸家保田與重郎氏のコーナーを設けています。数多くの著書をはじめ、ご本人がもっておられた本を集めた「保田コレクション」、そして日本浪曼文学に関連する文献や作家の本も集めて開架しています。(※1)

與重郎の拠った「日本浪曼派」は、大正から昭和初期にかけて、一世を風靡したプロレタリア文学・社会リアリズムと、アメリカニズムという両極を、真っ向から否定し、純粋日本のロマン追求を至上命題とする文学集団だった。日本のロマンを突き詰めてゆけば、いやでも古典にゆき着く。その古典に分け入れば、民族の持つ文化や伝統、精神といった問題に、血脈的な共感を覚えずにはおかなくなる。その結果として、ナショナルな「日本主義」の思想が産まれるのは自明の理だった。

保田氏が誌名も提案し中心となって刊行した『コギト』(※2)も開架しています。タイトルは、哲学者デカルトの言葉「Cogito ergo sum=我考う、故に我在り」が由来です。この雑誌に関する保田氏の遺稿が掲載されている本があります。(※3)

私らが「コギト」を始めた時は、文芸の評価判断の上で、当時の文壇風俗はをかしい、一変せねばならぬと感じるものがあつた。…明治の文明開化の進行以後、特に二つの戦役をへたあとの、学芸文芸の風潮には、西洋の十八世紀の克服と、近代の開拓についての無智と、判断の大きい誤りだけがあらはれてきた。…世界的に、大きい気流が動いているということは、すでに当時の若い精神のどこかで、急速に感じられていた。この大動乱の風潮に対し、目下日本の文芸の卑俗と怠慢をそのままに出来ないと考へた。

田中克己氏の解説と著者別書目索引が掲載されている本もあります。(※4)

(※1)『空ニモ書カン 保田与重郎の生涯』(吉見良三 著/淡交社)(K910.2 ヤ)
(※2)『コギト』(臨川書店)(K905 コ)
(※3)『浪曼派 第十二号 保田与重郎追悼号』(出雲書店)(K910.2 ヤ)
(※4)『コギト 別冊』(臨川書店)(K905 コ)

 樋口清之 A (『図書館だよりvol.119』掲載分)

前号でご紹介した『梅干と日本刀』以後、樋口清之氏は「梅干し博士」として知られます。日本文化の優秀さが書かれているシリースがあります。(※1)

日本人の自然観察の優秀さについては、たとえばこういう例がある。奈良県のある農事試験場の用務員さんが、三重県の伊賀上野の町を歩いていると、ゴミ箱に捨てられたゴミの中から、その年のナシが発芽していた。その芽を見た瞬間、彼が何十年手がけているナシと、少し様子が違うことに、直感的に気がついた。そこでゴミ箱からそのナシの芽を持って帰って、それを植えてみた。これが現在、日本中に広がっている二十世紀ナシの発見である。

日本の歴史についても「古代の人たちの生き方や優れた外交政策は何よりのお手本になる」と著しています。(※2)

徳川家康という人物。最近はすっかり英雄としての見方が定着しているが、明治以後、永い間、家康は狸おやじ≠ナあり、いわば悪者≠ナあった。それは教科書ですらそうであった。…それは、なぜか。当然のこと、明治時代の教科書を作ったのは明治政府である。そして、徳川家康が創りあげ、二七○年近くもの間、栄華をきわめた江戸幕府を、明治維新という一種の革命で葬り去ったのもまた、ほかならぬ明治政府であった。

「わが家系の中の日本史」の項には、樋口家のルーツも記載されています。(※3)

宮部家は奈良・織田家の二○○石取りの普請奉行として安泰の日々を送っていた。その姓が、なぜ「樋口」に変わったのか。…天誅組に、私の父方の祖父が加わっていたのである。…祖父は、ほうほうの態で大坂へ逃げた。…そこで祖父は西郷に助けられることになる。祖父は目隠しをされ、そのまま船に乗せられて鹿児島へ運ばれる。…「宮部」という姓のままでは捕まってしまう。…ちょうど都合よく跡取りの絶えていた藩士の家があった。それが九州に多い「樋口」の姓であった。

(※1)『梅干し博士の日本再発見講座 1〜8巻』(樋口清之 著/ごま書房)(K210.0 ヒ)
(※2)『うめぼし博士の逆・日本史 古墳→弥生→縄文』(樋口清之 著/祥伝社)(K210.0 ヒ)
(※3)『うめぼし博士の逆・日本史 昭和→大正→明治』(樋口清之 著/祥伝社)(K210.0 ヒ)

 樋口清之 @ (『図書館だよりvol.118』掲載分)

樋口家は、織田長益(有楽斎)の子孫の家臣として在住した宮部氏の出で、芝村(現桜井市芝)に住み、ここを原籍地とされたそうです。樋口清之氏は、その後父親の仕事の関係で奈良市に移り、中学の時にはまた桜井市芝で下宿したと書かれています。この頃からすでに、考古学者としての道ができたようです。(※1)

大正一〇年四月一日奈良県立畝傍中学校入学。母の実家、桜井市芝の宮部家に下宿。その二年生のころから考古学に興味を覚え、県内各地を調査採集。三年のときはじめて考古学雑誌投稿。この年秋、鳥居竜蔵博士の講演を聞き、一層興味を深くした。学校では原田恭介先生(東大国文科出で、古美術を研究し、中宮寺弥勒論などに優れた論文を残された)の知遇を受け、とくに外国語学習の必要を強く教えられた。

日本古代からの生活も幅広く研究、独特な日本文化や多くの知恵を国内外に紹介した著書『梅干と日本刀』3部作は、100万部を越えるベストセラーになりました。(※2)

鎖国を解いて、日本の文化が世界に紹介されはじめてから、西洋人が驚嘆したものに、浮世絵の技法と、この刀の技法がある。・・・西洋の科学は分析科学だから、当然、日本の刀を持ち帰って分析した。その結果、刀の鉄の成分などはわかったが、ついに同じものを作ることはできなかったのである。・・・日本の刀の作りは、ついに世界の人々が真似できなかったのである。

好評だった上記の著書は続編や新編としても刊行されています。(※3)(※4)

文字の習得ということについて、日本がひじょうに有利だった理由の一つは、単一の言葉を話したこと。…もうひとつ、たいへん大切なことに、江戸時代には、すでに「紙」が生活の中に浸透していたことが挙げられると思う。「紙座」という紙漉工や紙商人の同業組合ができたのは、一四〇七年である。紫式部が、世界最古の近代形式の小説『源氏物語』を書けたのも、紙があったからである。

(※1)『樋口清之博士略歴譜并著作論文目録』(樋口清之博士古稀記念事業実行委員会)(Kヒ289.1 ヒ)
(※2)『梅干と日本刀 日本人の知恵と独創の歴史』(樋口清之 著/祥伝社)(K210.0 ヒ)
(※3)『梅干と日本刀 続 日本人の活力と企画力の秘密』(樋口清之 著/祥伝社)(K210.0 ヒ)
(※4)『新・梅干と日本刀 江戸・東京編』(樋口清之 著,奈良守康 著/祥伝社)(K210.0 ヒ)

 森本六爾 C 藤森栄一 (『図書館だよりvol.117』掲載分)

前号に記載しました森本六爾著『日本農耕文化の起原』は七回忌追悼のために、藤森栄一氏が編集したものです。東京考古学会に属し森本六爾氏を師と仰ぎましたので、出身は長野県ではありますが、関連図書として郷土資料室に開架しています。ちくま少年図書館『心の灯』(※1)には、最初の発掘で森本氏と出会った事が書かれています。(※1)

その資料発見のしらせは、地元の先輩であった八幡一郎さんにも報告しておいたが、やがて森本六邇という、私の知らない人から手紙がきた。・・・森本ミツギ夫人の筆で五本きている。そして私の原稿が送られて二日目に森本さんからは、まず、あなたの原稿をみて感激したという電報がきた。・・・このことでほんとうに感激したのは、森本さんよりむしろ私のほうだったろう。私はせっせと森本さんあて、つまり東京考古学会の雑誌「考古学」あてに論文や報告を書くようになった。昭和五年、二十歳の時である。

藤森氏が考古学の道をすすむようになったのは、森本六爾氏との出会いが大きく影響しているようです。(※2)

壇上にたった森本さんは、低い含み声で、後向きに、・・・「私はこうして話していても、初めは、一応の仮説として、青銅器を育てた弥生式水稻農耕社会の発展を説明するつもりであったのが、もはや、私の頭の中では、完成した定説に育ちつつあるのをとめることができない」と、力説したが・・・ただ、一番後の席で、セル張り下駄を一杯に足膏ですべらせながら、終りには、爪を噛んでのりだしていた私だけは、空腹も忘れて、自分の道をききだしている思いがした。

藤森氏が「私の原型ともいうべく本」と称している『かもしかみち』(※3)をはじめとして、『藤森栄一全集』(※4)も郷土資料室に集めて開架しています。

(※1)『心の灯 考古学への情熱』(藤森栄一 著/筑摩書房)(K21 フ)
(※2)『銅鐸』(藤森栄一 著/学生社)(K210.2 フ)
(※3)『かもしかみち』(藤森栄一 著/学生社)(K210.2 フ)
(※4)『藤森栄一全集』(藤森栄一 著/学生社)(K210.0 フ)

 森本六爾 B  (『図書館だよりvol.116』掲載分)

森本六爾氏は、昭和11年32歳という短い生涯を閉じましたが、考古学者として大きな功績を残したと『森本六爾伝』著者の藤森栄一氏は記しています。(※1)

かれは、二十歳から没年までの十二年間に、十冊の単行本と、百六十余篇の論文を書いている。その数量だけでも、これは大変なことである。とくに、死に急迫されながらの、昭和九、十年、懸命に書き続けた日本原始農業の究明、つまり、一世紀前後の弥生式時代から、日本は農耕社会の文化に入ったという主張は、日本文化史の上に輝く不滅の業績となった。

弥生時代から日本の農業は始まったという説は、森本六爾著『日本農耕文化の起源』の中の「日本に於ける農業起源」という章に記述されています。(※2)

先史時代の農業は、彌生式の文化と共に、先づ日本島の西端にある九州島に傳播した。・・・奈良懸の丹波市町近傍の岩室や畝傍山近くの中曾司、さては吉野・三輪の彌生式遺蹟からも、稻實や稻の莖の壓痕のある彌生式土器が注意檢出され、高市郡の新澤村字一からは籾殻の屑が發見された。・・・これらは、それぞれ水稻であつて陸稻でない。當時収獲された穀物は、釜や鍋を用ひて煮たのではなく、一般に土器、?ち甑形の彌生式土器及び有孔の蓋のついた壺形彌生式土器等でもつて煮焚きしたのであつた。縄文土器には未だかゝる如きものはない。かくして土器も煮沸に適する形式が製作された。

『日本考古学研究』には、彌生式文化の詳細な解説をはじめ、青銅器や銅劍銅鉾の研究も掲載されています。(※3)これらの他にも、郷土資料室には『森本六爾関係資料集1』『森本六爾関係資料集 2』(※4)等を開架しています。

(※1)『森本六爾伝』(藤森栄一 著/河出書房新社)(K289.1 モ)(K289.1 モ)
    『二粒の籾』(藤森栄一 著/河出書房)(K289.1 モ)
(※2)『日本農耕文化の起原』(森本六爾 著/葦牙書房)(K210.2 モ)
(※3)『日本考古学研究』(森本六爾 著/桑名文星堂)(K210.2 モ) 
(※4)『森本六爾関係資料集』(奈良県立橿原考古学研究所 編/由良大和古代文化研究協会)(K289.1
     モ)

 森本六爾 A 妻・ミツギさん  (『図書館だよりvol.115』掲載分)

森本六爾氏と妻のミツギさんとの出会いは、考古学研究会のグループの一人が上総国分跡への遠足の日に連れてきたのがきっかけだそうです。ミツギさんも考古学に興味があったので、すぐに意気投合。一週間後には結婚を誓いあいました。(※1)

浅川ミツギさんは、福岡県筑紫郡大野村下大利(現大野城市)の出身で、福岡県立福岡高等女学校から東京女子高等師範学校第六臨時教員養成所の理科家事科へ進み、すばらしい成績で卒業された才媛といわれている。郷里の朝倉高等女学校に二年間勤めてから、叔父の中島利一郎さんを頼って上京し、虎之門の東京女学館で教鞭をとられている。・・・森本さんとミツギさんの晴れの結婚式は、三月二十五日に鳥居龍蔵邸で博士ご夫妻の媒酌で行われている。

ミツギさんは、森本氏が手掛けていた雑誌『考古学』の刊行や編集の手伝い、さらには研究に専念できるようにと、生活費を担い一心に支えました。(※2)

六爾の妻、ミツギは毎朝八時ごろ、お手伝いに長男鑑を託して東京女学館に通い、物理・化学を教えた。家では東京考古学会の会務をこなし雑誌『考古學』に「編輯所日記」を連載した。その袴姿は約五尺四寸、男のように大きな骨組みと硬い肉。骨格の逞しさに「どんな辛苦も、なおこの上に積もれかしという気概」が溢れていたという。

結婚して六年、教師や編集や子育てと、休む間もなく走り続けていたミツギさんでしたが、疲労が重なり結核にかかってしまいます。(※3)

肌寒い晩秋の十一月十一日の夜半、森本を献身的に支え続けたミツギは、もうろうとした意識の中で、わが子鑑の名を呼び、森本の手を固く握りしめながら、三十一歳の若さで息をひきとった。

(※1)『考古学の殉教者 森本六爾の人と学績』(浅田芳朗 著/柏書房)(K289.1 モ)
(※2)『月刊大和路 ならら 2011年11月号』(鈴木元子 編集/地域情報ネットワーク)(雑誌)
(※3)『月刊奈良 2008年(平成20年)4月号』(上地恒夫 編集/現代奈良協会)(雑誌) 

 森本六爾 @  (『図書館だよりvol.114』掲載分)

「森本六爾氏は、明治36年3月2日桜井市大泉の農家の家に生まれました。少年のころの様子が『月刊奈良』の歴史閑話に掲載されています。(※1)

少年の頃から負けん気が強く、周囲と摩擦の絶えなかった性質だったのだろう。後年、森本が先学の人たちから将来を嘱望されながら、いつしか周囲と摩擦を起こし、孤立していったのは、彼の性格によるものであったのだろう。・・・その頃、初瀬川沿いに下ってきて唐古池周辺で土器を採集する森本少年の姿を周辺の農家の人がひんぱんに目撃するようになった。やがて卒業時になって森本は両親に無断で国学院大学を受験し、そして合格した。が、事情が許さなかった。

進学を断念せざるしかなかった森本少年は、学校の代用教員となって働きはじめるが、唐古池通いは続きました。(※2)

大正九年三月、彼は自宅から初瀬川をさかのぼって、三十分たらずで行ける三輪尋常高等小学校の代用教員になった。・・・三輪山の某書店の老主人から面白い話をきいた。・・無茶苦茶に本を買う代用教員がいた。・・・大正九年といえば、京都大学考古学教室の興隆期で、有名な教室の研究報告・・・畿内の弥生式文化のはじめての学績の出揃った年であった。その数冊の稀覯書は、後、先生の書棚の中で、バラバラになるほど真黒に書き込みがされていた。・・・森本さんの処女論文は「考古学雑誌」十三巻九・十号に連載された「大和における家形埴輪出土の一遺跡について」である。 大正十四年三月には、前年暮、三河の小坂井で発見された三個の銅鐸を、後藤守一さんが調査してきたデータを使って、「三河国宝飯郡小坂井村発見の銅鐸に就いて」森本六爾・後藤守一、という論文を「考古学雑誌」十五巻三号(※3)に書いている。

(※1)『月刊奈良2008年(平成20年)3月号』(上地恒夫 編集/現代奈良協会)(雑誌)
(※2)『二粒の籾』(藤森栄一 著/河出書房)(K289.1 モ)
    『森本六爾伝』(藤森栄一 著/河出書房新社)(K289.1 モ)
(※3)『考古學雑誌 第15巻第3號』(考古学会 編輯/聚精堂)(Kヒ202.5 コ) 

 山の辺の道  (『図書館だよりvol.113』掲載分)

「山の辺の道」「山辺の道」「山ノ辺の道」などの表記があります。保田與重郎さんは著書『万葉路 山ノ辺の道』で、山の辺の道の自然美をたたえて記されています。(※1)

今日の山ノ邊の道は、大和の國中でも、一番ものしづかで、人情も平常なやうにうけとる。奈良から櫻井へ通る鐡道の沿線が、大和國原では一番温雅なやうだ。その沿線、櫻井から丹波市までの間の車窓から見てゐると、好ましい形をした、はつきりと大古墳とわかるものが三十數箇あつた。しかしこの線路に沿ひ、山べにかかつて列つてゐる村落と、平地にたちつづく村は、どの一つをとつても、最もすぐれた總合?術品でないものはない。

和田萃さんは、山辺の道の歴史的価値として、多くの文献をあげて説明されています。(※2)

結論的にいえば、山辺の道とは、三輪山の麓の道を意味したものと考えている。つまり「山」とは三輪山を意味していた。そしてヤマトの地名や邪馬台国の呼称も、三輪山に由来するものであった。

同書によりますと、山辺の道が認識されたのは、持ち歩きに便利で内容も充実していた大和路叢書第6巻『山の辺の道』(昭和16年刊行)の存在が大きいとのことです。(※3)郷土資料室には、昭和44年出版田中日佐夫さん著、同47年・朝日新聞奈良支局編、同50年・金本朝一さん著の本等も開架しています。これらの旅行ガイドを読みますと、この時代から今もかわらぬ美しい歴史と景観を残していることがわかります。(※3)

(※1)『万葉路 山ノ辺の道』(保田與重郎 著/新人物往来社)(K911.12 ヤ)
    『保田與重郎文庫 17』(保田與重郎 著/新学社)(K918.68 ヤ)
(※2)『古代を考える 山辺の道』(和田萃 著/吉川弘文館)(K216.5 ワ)
(※3)『大和路 〔6〕』(新井和臣 編纂/近畿観光会)(K291.6 ヤ)
    『山の辺の道』(金本朝一 著/綜文館)(K291.6 カ)
    『山の辺の道』(朝日新聞奈良支局 編/創元社)(K291.6 ア)

 桜井市史  (『図書館だよりvol.112』掲載分)

桜井市が発行している『桜井市史』(※1)の編纂は、市制施工20周年を記念して昭和50年7月に始まりました。それまで刊行されていた『桜井町史』(※2)、『桜井町史 続』(※3)、『大三輪町史』(※4)、『郷土』(※5)を基に、3年計画で進みました。
昭和50年11月15日号の『桜井市政だより』には、編纂委員の方々の紹介が掲載されています。(※6)

<編さん委員>(敬称略、アイウ順)▽気候・・・青木滋一▽考古学・・・網干善教▽民俗・・・池田末則、栢木喜一▽文学・・・犬養孝▽歌碑・句碑・・・阪本伊作▽金石文・・・土井実▽歴史・・・樋口清之、平井良朋、広吉寿彦、堀井孝昭▽地理・・・堀井甚一郎▽社寺・伝承・・・松本俊吉▽序文・・・保田与重郎・・・・・これら委員の方は、各々の学識を生かし、昭和五十二年秋脱稿、五十三年秋に出版を目標に調査、執筆に漸進されています。

昭和55年2月に上下2巻が完成、15日より頒布予約の受付がスタートしました。下巻には「新市史に序す」と題して、保田与重郎氏の序文が掲載されています。(※1)

・・・桜井市は大倭朝廷発展の旧地にて、十代崇神天皇の磯城瑞籬宮にて、十一代垂仁天皇、十二代景行天皇の巻向宮は上古日本国の確立する時代の旧都である。・・・桜井市は市域全般が上代の都址である。・・・市内の古墳はその数を知らない。地面下の土中は縄文弥生の遺物で敷きつまつてゐる。・・・歴史といふものは、各人がわが心の中に深く構へ、わが感情を燃やし、現在の活力を力づけ、未来をひらく、創造的積極的な精神をおこす作用をなすものであらねばならない。この市史を顧みることによつて、人は国の始めの古の時代を慕ふべきである。

(※1)『桜井市史 上下』(桜井市史編纂委員会 編集/桜井市役所)(K216.5 サ)
(※2)『桜井町史』(桜井町史編纂委員会 編集/桜井町役場)(K216.5 サ)
(※3)『桜井町史 続』(桜井町史編纂委員会 編集/桜井市役所)(K216.5 サ)
(※4)『大三輪町史』(桜井市役所 版権所有者/臨川書店)(K216.5 オ)
(※5)『郷土 上之郷・初瀬・吉隠・大福・吉備』(桜井市)(K216.5 キ)
(※6)『桜井市政だより 自昭和50年 至昭和51年』(総務課 編集/桜井市役所)(K318.5 サ) 

 聖徳太子と土舞台  (『図書館だよりvol.111』掲載分)

聖徳太子が四十一歳の時(推古天皇二十年)、百済より伝わってきた舞楽や伎楽を、桜井の地で、少年達を集め習わせました。(※1)

百済国より味摩師と云楽人、上下十八人、我朝に渡り、舞楽・管絃等の曲を、日本国に伝ふる也。・・・推古天皇に奏し給ふは、「・・・いま、陛下の御代に、この曲どもを、我朝につたへてひろめんと思ひ侍る」・・・その時、太子、彼怜人を召て、大和国高市郡桜井村に、秦川勝が子息五人、孫三人、秦川満が子息四人、孫三人、巳上十五人に、ならはしめ給ふ。・・・

保田與重郎氏は、この場所こそが、桜井市の児童公園の一角にある「土舞台」であり、桜井市は芸能発祥の地であると著しています。(※2)

奈良県桜井市桜井の南郊、国鉄桜井駅の南数町のところに、「土舞台」とよぶ丘がある。南西は安倍山につづき、松の粗林のある、ながめのよい丘陵で、現今は桜井市の公園となっている。西に葛城山、二上山が遠くのぞまれ、・・・すべて大和国原の山河が一眺せられる。東から北にかけて鳥見山、倉橋山、初瀬、三輪の山々が見える、奈良の山々も見える。
推古天皇の御代に、時の摂政聖徳太子が始めて国立の演劇研究所と国立の劇場を設けられた場所と伝えられてきたのが、この大和の桜井の「土舞台」である。・・・

栢木喜一氏は、上記の冊子が刊行されたいきさつを記しています。(※3)

戦後、桜井市出身の文筆家保田與重郎氏が、これだけの史蹟地を顕彰しないことはないと考えられ、市内有志にはかり趣意書をしたためられた。・・・十七枚に及ぶ長文を執筆配布。やがて昭和四七年一一月四日、「土舞台」と刻した標石の前で、顕彰会に市が後援で盛大な顕彰式典が挙行された。当日、特別来賓として朝永振一郎夫妻、福田恒存、森繁久弥、岸田今日子、仲谷昇氏らが出席していた。

(※1)『聖徳太子伝』(杉本好伸 編/国書刊行会)(K288.4 シ)
(※2)『土舞台』(保田與重郎 著/桜井市)(K772.1 ヤ)
    『土舞台について』(保田與重郎 著/桜井市教育委員会)(K772.1 ヤ)
(※3)『桜井風土記』(栢木喜一 著/桜井市)(K291.6 カ)

 出雲人形  (『図書館だよりvol.110』掲載分)

出雲人形の始まりは、出雲の野見宿禰であると伝わっています。『奈良県磯城郡誌』(※1)の「出雲」の項には、日本書記の記述にふれながら書かれています。

東初瀬白河に接し、西は朝倉村黒崎に隣る、出雲の稱は古昔野見宿禰出雲より來りて此地に居住し、土偶を造りたるに依りて起りたりと傳ふ。日本書紀に「・・・是に於て野見宿禰進み手曰く、夫れ君主の陵墓に生人を埋むるは是れ不良なり、・・・?ち使者をして出雲國の土部一百人を喚ひ上せ、自ら土部等を領し埴を取り、以て人馬及ひ種々の物形を造作し、天皇に獻して曰く、自今以後この土物を以て生人に更易し陵墓に樹てて後葉の法則となさんと。・・・所謂野見宿禰は是土部連の始祖なり」と見ゆ。

『大美和』の第29号から33号には、瀧本知二さん(郷土史家)による出雲人形の連載記述が掲載されています。(※2)

かつて出雲村では焼き物の「出雲人形」を作り、伊勢参宮客の土産物として盛んに売り出していた。・・・江戸末期の最盛期を頂点として、参宮客が漸減するにつれ、人形の店も衰微した。その後鉄道の開通によつて、初瀬街道を利用する参宮客は全く杜絶した。・・・今では一軒だけ残っている。その窯元の水野徳造さんを訪ねたのは、昭和三十四年の夏であつた。・・・

昭和十四年発刊の會誌「磯城」第二巻第五號には、この一軒だけ残っておられた製作家水野徳造氏の談が掲載されています。(※3)

(イ) 出雲人形の種類は現在十二種ある。即ち組み相撲、立子供、俵牛、左前人形、飾り馬、天神、
   唐人三番叟、一匹猿、三匹猿、四匹猿、犬、布袋の各種である。
(ロ) 型−粘土で作られ非常に硬質、二枚合せの十二種類、合計二十四枚である。・・・

(※1)『奈良県磯城郡誌』(三輪村/編 奈良県磯城郡役所)(K216.5 ナ)
(※2)『大美和』(佐藤文正 編集/三輪明神大神神社)(K175.9 オ)
(※3)『磯城』(辻本好孝 編輯/磯城郡郷土文化研究会)(K216.5 シ)

 三輪素麺 (『図書館だよりvol.109』掲載分)

三輪素麺の謂れは、『古事記』中巻・崇神天皇の「三輪山の大物主神」伝説からきた説話のようです。(※1)これに関して、『三輪素麺悠久の歩み』の中に、「三輪素麺の起源と展開」/樋口清之さん(元国学院大学名誉教授)の記述が掲載されています。(※2)

「・・・娘が懐妊したので、姫は母の教えにしたがってその男の素性を知ろうとし、ある朝帰って行く男の衣の裾に糸をつけておいた。ところが男が帰ったあと、その糸が戸の鉤穴から出て行って、あとには三輪だけ糸が残っていた。・・・そこでその麻が三輪だけ残っていた縁故から地名を美和(三輪)と呼ぶようになった」と云う神婚伝説が残されている。この縁故でこの神の糸にちなんで、糸のように細い素麺を作ることになったと云い、それを糸にちなんで「おだまき」と云うのである。・・・こんな説話が説得力あるほど良質の麺を作っていた可能性がある。

三輪山麓の風土も、おいしい素麺を作るのに適しています。(※3)

巻向川と初瀬川にはさまれたこの地は、瑞垣と呼ばれた歴史の古い場所。ここでは、グルテン化に優れた小麦、つまり細く長く弾力を持って延びる、そうめん作りに最適の小麦が取れたという。また、三輪山ろくからわき出る水には、少量のラジウムやゲルマニウムが含まれており、不老長寿の水とも信じられていた。

素麺の食べ方は、冷やそうめんが代表ですが、その他にも温かい入麺や洋風にいためてもおいしいです。(※4)

そうめん作りが盛んになる江戸の初期から中ごろにかけて、油を使う料理はなかなかのご馳走であった。その上「ふし」は入手困難でもあった。この入手困難なる「ふし」をいためて食べるとなると、いきおい、金持ちの風流人か僧侶ぐらいであったろう。・・・「ふしの油いため」が記録に初めて出てくるのは、京都の相国寺の半公式記録である『隔?記』である。

(※1)『古事記(中)』(次田真幸 全訳注/講談社)(B913.2 ツ)
(※2)『三輪素麺悠久の歩み』(奈良県三輪素麺工業協同組合 編)(K619.3 ナ)
(※3)『あかい奈良 2001年春号』(渡部美津 編/青垣出版)(雑誌)
(※4)『そうめん 第2集』(三輪そうめん山本企画広報室 編/三輪そうめん山本)(K596.3 ソ)

 山田寺 (『図書館だよりvol.108』掲載分)

孝徳天皇(大化五年三月)の時代、石川麻呂大臣は謀反の疑いをかけられ、長男が造営にあたっていた山田寺に逃れ、「この寺は、われのためではなく、天皇のためにと造ったものだ。」と、冤罪を訴えながら自決しました。(※1)

・・・・・天皇、及ち軍を興して、大臣の宅を囲まむとす。大臣、及ち二の子、法師と赤猪更の名は秦。とを将て、茅渟道より、逃げて倭国の境に向く。大臣の長子の興志、是より先に倭に在りて、山田の家に在るを謂ふ。其の寺を営造る。今忽に父の逃げ来る事を聞きて、今来の大槻のもとに迎へて、近就前行ちて寺に入る。・・・・・

山田寺は、その後造営が一時中断しながらも、天武十四年に伽藍が完成しました。後に藤原道長は、同寺を称して「奇偉荘厳」と讃えました。(※2)

山田寺は中門・塔・金堂・講堂を南北一直線に配し、中門左右に延びる回廊が塔と金堂を囲む伽藍配置をとる。回廊の外側には大垣が四周にめぐり、門が開いていた。回廊の東北角の東には宝蔵が建つ。講堂の東北では礎石2個が検出されており、僧房のものと推定されている。

奈良文化財研究所は、1976年から1996年にかけて行った発掘調査をまとめ、「本文」・「図版編」として刊行しました。(※3)

1917年(大正6)、現地の状況を実測調査した建築史家の天沼俊一は、その時点での伽藍の現況と講堂礎石の測量図を作製し、講堂については7×4間の建物であると指摘している。1935年、史蹟名勝天然記念物法が施工されるとすぐに、これらの調査成果にもとづいて、山田寺は史蹟に指定された(1935年3月3日付)。

(※1)『日本書記(四)』(坂本太郎ほか 校注/岩波書店)(210.3 ニ) 
(※2)『奇偉荘厳 山田寺』(国立文化財機構奈良文化財研究所飛鳥資料館)(K210.3 キ)
(※3)『大和 山田寺跡 本文編』(文化財研究所 編/文化財研究所)(K210.3 ヤ)
    『大和 山田寺跡 図版編』(文化財研究所 編/文化財研究所)(K210.3 ヤ)

 桜井木材協同組合 (『図書館だよりvol.107』掲載分)

桜井市は木材の町です。桜井市立図書館の研修室1の円形ホールに使われている桧と杉は、地元産です。木材業が発展したきっかけは、鉄道が開通したことでした。(※1)

明治26年には高田−桜井間、ついで明治30年には奈良−桜井間に鉄道が開通した。それまでの桜井は、道路や輸送条件が悪く、材木を流送する河川にも恵まれているわけではなかったから、多武峯の原木資源に近接していること、多武峯の特長である原木の品質が優れていること、・・にほとんど依存していたのである。・・それが鉄道の開通以後、京阪神の消費地との連絡が密となるにしたがって、順次経営の規模も大きくなり、その活動範囲も広まっていった。

明治30年に「多武峯木材株式会社」が設立され、昭和24年には、「桜井木材協同組 合」が設立されました。以後、「大火」という試練もありました。(※2)

昭和三〇年七月は大火に襲われた。・・・罹災した業者は二六人(木協組合員)に及び、八六二・五坪の工場建物を焼失し、一・五万石の手持素材と製品を焼失して、その損害見積り額は二・四億円に達した。それまで順調に発展し、いよいよその幹を太くしようとしていた時期だけに、この大火は木材業界の大きな痛手となり、ショックも大きかった。それはまた、都市計画の必要性を痛感させることにもなった。

桜井木材協同組合は昭和54年に30周年を、平成11年に50周年を記念して冊子を刊行しました。その中に、駅前のモニュメント作成のことが書いてあります。(※3)

当初は鉄製のものが考案されていたが、桜井木協の提案で「木材の町・桜井」を強くPRすることのできる杉材で製作されることになった。・・・このモニュメントの4本の柱には桜井市から始まったとされる“相撲発祥の地、仏教公伝の地、芸能創生の地、万葉集発燿の地”の文字が標されている。

(※1)『桜井木材業経営史』(桜井木材協同組合 著)(K652.1 サ) 
(※2)『桜井木材業史』(桜井木材協同組合 編)(K652.1 サ)
(※3)『桜井木材協同組合30年のあゆみ』(桜井木協<30年のあゆみ>編集委員会 編)(K652.1 サ)
『創立五十周年記念誌50年のあゆみ』(桜井木材協同組合50周年記念誌編集委員会 編)(K652.1 ソ)

 三輪山 (『図書館だよりvol.106』掲載分)

三輪山は「ご神体山」として、広く知られています。地元出身の樋口清之氏(元国学院大学名誉教授)は、山の形態や自然にふれ、その成り立ちについて著しています。(※1)

・・・西側から見ると、円錐形のあたかも火山を想わせる独立丘となっているが、東は初瀬山 につづいて長い尾を曳く形となる。これは、山塊自体は大和高原全体を構成するいわゆる笠置石(この付近では単に花崗岩とよばれている)、すなわち粗粒閃雲花崗岩であるのに、頂上を中心として表面にきわめて堅硬な角閃班糲岩が露出しているので、侵蝕はこれを頂点に円錐形に進んだので、火山状の山容を呈するようになった。この山容が、奈良平野に住む人達から神奈備として神霊の宿ります山と信じられるようになったもとである。

日本の代表的な三輪山をはじめ、各地の円錐形の山には、必ずといってよい程、蛇伝承がみられると、民俗学者の吉野裕子氏は著しています。(※2)

・・・円錐形の三輪山には、これを祖神の姿とする原始蛇信仰の息の長い残存と、五行の 法則が導入されると、今度はこれを「火の山」と観じ、火を人祖とする法則から、これもまた祖霊の山としての捉え直しの二面が見出され、ここには新旧両儀の信仰が混在することになる。  「三輪山」とはもちろん古儀による名称で、蛇の古語、「ハ」又は「ハハ」に敬称の「ミ」が冠せられた名称と解される。

『日本歌人』同人の山中智恵子氏は『日本書紀』の敏達天皇の巻を紐解き、三輪山は天皇の守護霊だったと説いてます。(※3)

敏達十年(五八一)春潤二月に蝦夷数千が辺境に冦したので、その首領綾糟等を召して泊瀬川(三輪川)の水にみそぎさせ、永久に反逆の心のないことを誓わせたのである。このことは敏達天皇の時、なお三輪山は天皇霊の所在であり、守護霊であって、天皇霊の鎮まるところと信じられていたことを物語る。

(※1)『神郷 三輪山』(東京三輪いかづち講 編/同友館)(K175.9 シ) 
(※2)『神奈備 大神 三輪明神』(三輪山文化研究会 編/東方出版)(K 175.9 カ)
(※3)『三輪山伝承』(山中智恵子 著/紀伊國屋書店)(K910.2 ヤ)

 大神神社 (『図書館だよりvol.105』掲載分)

昭和25年から58年まで、大神神社の宮司だった中山和敬氏によると、大神神社は三輪山そのものを御神体として、神社に拝殿だけがあるという、最も古い祭祀形式を今に残し伝えている日本最古の神社だということです。(※1)

・・・『古事記』では、大国主神が、自分と兄弟となって、ともに国造りにはげんできた少彦名神を失われ、落胆のあまり、自分ひとりでこれから先、どうしてこの国を治めることができるだろうか、どの神とともに国造りをしたらよいだろうかと思い悩んでおられた時、海を光して依り来る神あり・・・「自分を倭の青垣東の山上に斎きまつれ」と仰せられた。
これは御諸山の上に坐す神なり−大和の国の周囲を垣のように取りまいている青山の、その東方の山上−つまり、大和平野の東青垣の山々の中でもひときわ秀麗な三輪山にお祭りせよと仰せられたので、早速そのようにしてご奉斎したのが、当大神神社のおこりである。

冊子『大美和』は、昭和26年に創刊され、現在に至っています。平成13年には創刊100号記念として刊行され、100人の執筆による増刊号となっています。(※2)

手書きの執筆、フロッピー、或いはEメール、またカナダやヨーロッパから航空便で頂戴したものもあり、斬界でご活躍の先生方による、一番古い三輪山の、一番新しい研究が詰まっている一書と言える。

大神神社の大鳥居は、昭和60年12月24日に建立されました。(※3)

当神社正面参道入口にある鳥居は古来から「大鳥居」と称され、社蔵の古地図にもそのよう に記されている。・・・江戸時代末、万延元年に建てられ、何回か修理を重ね保持されてはきたが、110年の星霜を経てこれ以上は危険となったため、昭和四十五年十二月二十日に撤去されたままとなっていた。その後、幾度かは復元の話しは出たが実現に至らなかった。

(※1)『大神神社』(中山和敬 著/学生社)(K175.9 ナ) 
(※2)『大美和』(総務部広報課 編/三輪明神大神神社)(K175.9 オ)
(※3)『大神神社大鳥居建立記念誌』(大神神社 編/大神神社社務所)(K175.9 オ)

 和出雲村と野見宿禰  (『図書館だよりvol.104』掲載分)

大和出雲村は、野見宿禰伝説やはにわの発祥地が伝わる村です。池田雅雄さんは、宿禰の出身地が島根県出雲ではなく、大和出雲であったという説を書かれています。(※1)

問題の一つに天皇が蹴速に対抗できる者を求めたとき、一人の臣下が「出雲国に勇士あり」といって「即日」使いを出して宿禰を呼んできたことにある。いままでの解釈では、即日使いを出してやがて宿禰が島根県の出雲国からやってくることになるが、筆者は「即日」に使いがいって即日のうちに出雲より至れり、とまでつづくのではないかと解釈したい。古代の交通道路の不完全さは、いうまでもない。島根県の出雲に使いがいって宿禰を連れてくるには、どう考えても無理な、不自然な話ではなかろうか。

長らく出雲村の区長を務められた栄長さんの著書にも書かれています。(※2)

野見宿禰は国技相撲の開祖であると共に、埴輪説話の土師連の始祖でもある。 その伝承が大和の出雲には、現存している。野見宿禰の土師部の子孫が作っている「出雲邑土人形」の伝統として、出雲人形屋がいまも土人形を作っている。

図書館エントランスのギャラリーケースにも飾っています出雲人形は、埴輪のはじまりだとも言われています。(※3)

奈良県三輪山の南麓、桜井市出雲町は、昭和のはじめごろまで、全戸が人形屋であった。長谷寺まいりの善男善女を相手に、出雲人形を売る店がたちならび、たいへんな繁盛ぶりだったという。30年をへたいま、人形づくりの家は出雲でも一軒だけ。野見宿禰をかたどった力士と俵牛が代表作だそうだが、ハニワとはまるで不似合いなもの。古拙で率直で美醜を超脱した手法に、原始人の妙味があるようだ。

(※1)『相撲開祖 野見宿禰と大和国出雲村』(池田雅雄 著)(K788.1 イ) 
(※2)『大和出雲の新発見』(栄長増文 著)(K210.3 エ)
(※3)『はにわ誕生 日本古代史の周辺』(金谷克己 著)(K210.3 カ)

 相撲発祥の地  (『図書館だよりvol.103』掲載分)

前28年、垂仁天皇は纒向に珠城宮という都を作りました。5年後の7月、この都で 初めての天覧相撲をとったのが、出雲の野見宿禰と当摩蹴速と伝えられています。(※1)

・・・野見宿禰と当摩蹴速とに相撲をとらせた。二人はあい対して立ち、それぞれ足を挙げて蹴とばした。まもなく野見宿禰は、当摩蹴速のあばら骨を蹴とばして折ってしまい、また彼の腰を踏み折って殺した。そこで、当摩蹴速の土地を奪って、ことごとく野見宿禰に賜わった。これが、その邑に腰折田があるいわれなのである。野見宿禰は、そのまま留まって朝廷にお仕えした。

郷土資料室に、明治18年恵所筆のこの相撲絵図が飾られています。穴師大兵主神社で昭和37年7月、大鵬・柏戸両横綱による土俵入りも行われ、時津風理事長名の祭文が展示ケースに収められています。(※2)保田與重郎氏も、この奉納土俵入りには尽力しました。(※3)今年は、それより50年がたち、現理事長の北の海親方名による祭文が、八角親方の手により、新たに奉納されました。これも、展示ケースの中に収められています。

 垂仁天皇天覧相撲の遺址なる現在の穴師大兵主神社神域内、カタヤケシに於て、厳粛なる方屋祭の執行を例年の行事として行い現在協会の十両以上全力士が参列すること。顕彰の第一着手としては協会全力士によつて、この由緒地に土俵をつくり奉納する形をとり、ここを日本第一相撲濫觴聖地とし、全日本の学童角力の中心道場とし、又民族的憧憬の現場として、ゆくゆく全国大会を催したい。

野見宿禰神社が建っている字カタヤケシについては、樋口清之氏も書いています。(※3)

・・・長尾市が、先述の如き大和の西部地方を東部地方の大国魂神の統治する象徴とするための角力を行わせるのに撰んだ地としては、このカタヤケシの地は極めて合理的な場所で、皇居に接し、大国魂の社にも近く、しかも土地高燥清浄の地であるということが出来る。

(※1)『日本書紀』(井上光貞 編)(210.3 ニ)   
(※2)『国技角力発祥の地桜井市』(桜井市自治連合会 著)(K788.1 サ)
(※3)『国技 角力発生の地 大三輪町』(大三輪町教育委員会 編)(K788.1 コ)

 聖林寺と十一面観音菩薩立像  (『図書館だよりvol.102』掲載分)

聖林寺は桜井市下にたたずむ古刹で、門前からは大和盆地が一望できます。本尊の十一面観音菩薩立像は、昭和26年に国宝に指定され、多くの文人達がその美しさを記しています。保田與重郎氏も「聖林寺の寺と佛」の章でふれています。(※1)

聖林寺十一面観音の偉容は、天平的均整の等分律を破つてゐる點で、優作の證をなしてゐる。この作品を一つの頂として、次の弘仁期の木彫と繪畫に、まことの日本の造型の最も 美しくすばらしいものが開花するのである。

和辻哲郎氏は、大正7年に奈良を訪れ、十一面観音菩薩立像の美しさを「偉大な作だ」と賞賛しています。(※2)

 肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均整を失わない、快いリズムをあたえている。

この国宝が廃仏毀釈という大きな歴史の影響により、三輪山から聖林寺へと避難されてきたということが「聖林寺小史」(倉本弘玄 文)に書かれています。(※3)

十一面観音は、よく知られているように、かつては三輪山・大御輪寺の本尊であった。大御輪寺は奈良時代の中頃、大神々社の最も古い神宮寺として設けられ、十一面観音はその本尊として祀られてきたという。明治になると神仏分離・廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるが、既に幕末にはその前触れがあったのであろう。十一面観音はじめの三体の仏像は慶応四年五月十六日、大八車で三輪からこの知に避難された。 

(※1)『保田與重郎全集 第三十三巻』(保田與重郎 著/講談社)(K918.68 ヤ)
(※2)『古寺巡礼』(和辻哲郎 著/岩波書店)(K702.1 ワ)
(※3)『多武峯』(山田隆造 著/綜文館)(K175 ヤ)

 安倍寺と安倍文殊院  (『図書館だよりvol.101』掲載分)

『桜井市歴史散歩』によると、安倍文殊院はもともと安倍寺の一院で、安倍氏一族の墓所だったらしいと記載されています。(※1)

安倍寺は、孝徳天皇(約千三百年前)の勅願により大化の功臣阿倍倉梯麻呂が建てた。(この阿倍左大臣死没直後、山田右大臣石川麻呂が自殺している。)ところが鎌倉時代には安倍寺は既に廃寺となり、文殊院が現地に残された。

実際に発掘調査が行われ、安倍寺跡からは礎石や遺溝が見つかっています。(※2)

 安倍寺跡第15・16・18次調査では鎌倉時代の瓦溜まりが見つかっており、安倍寺の廃絶に関連した遺構と考えられています。この瓦溜まりから出土した遺物には火災を受けたものも含まれており、鎌倉時代に安倍寺が焼失していたことが明らかになりました。この焼失の原因としては興福寺対多武峰(妙楽寺 現談山神社)の抗争が考えられます。この火災の後、安倍寺は安倍寺別所に移転統合されたと考えられます。これが現在の安倍文殊院につながり、現在まで法灯を保っています。

『安倍文殊院史』には、お寺の歴史や安倍一族についても記述されています。(※3)

安倍一族の本貫地である現在の桜井市阿部の地一帯は、この当時、磐余と呼ばれる地でした。・・・周辺において、六人の天皇が宮を造営され、時の政治の中心は、磐余にあったことが日本書紀や古事記に記載されています。この磐余の宮の時代が終わると、都は飛鳥へと移っていく訳です。

本年2月に、本尊文殊菩薩群像が、国宝に指定されました。(※4)

(※1)『桜井市歴史散歩』(栢木喜一 著/桜井市)(K291.6 カ)
    『安倍村の史蹟』(奈良県磯城郡安倍尋常高等小学校 編/安倍村)(K216.5 ナ)
(※2)『阿部氏 〜桜井の古代氏族〜』(桜井市文化財協会 編)(K210.3 ア)
(※3)『安倍文殊院史』(東快應 著/安倍文殊院)(K185.9 ア)
(※4)『安倍文殊院』(東快應 著/安倍文殊院)(K185.9 ア)

 音羽山観音寺  (『図書館だよりvol.100』掲載分)

音羽山観音寺は、標高851mの音羽山の中腹に建っています。下居のバス停から、約1.8キロ徒歩で約50分登っていきます。登り口には杖が用意されています。昭和五十三年奈良新聞社出版の『わたしの大和路』(※1)に、名水の地として紹介されています。

本堂の右手から滝のような音が聞こえる。降りていくと、岩清水が掛桶から、滝となって流れ落ちている。この水で眼を洗うと眼病に効くとか。水しぶきを浴びて両手に水を受け、飲んだ。うまい。思い描いていたとおりの自然の冷たい水だ。

「開創一二五○年の謎を探る」という副書名がついている『観音寺ものがたり』は、本尊千手千眼観世音菩薩の平成大修理にもふれ、記述されています。(※2)

 先ず千手がはずされ、続いて両腕が、さらに頭部がはずされた。明かに寄木造りである。 長い間の一木造りの伝承は、ここに神秘のベールを脱いだのである。この日明かになったことは次の三点であった。材質は梅の木でもなく、桧材だけではなく桧と欅の組み合わせであったこと。頸部の欅材に墨書がみとめられたこと。始めての修理ではなく、過去に何回か修理された跡があったこと。・・・

観音寺までの道程には、笠塔婆型の「丁石」が建っています。(※3)

・・・天保十五年(1844)六月・弘化二年(1845)正月の刻銘のある十七基の丁石が全部現存している。すべて南音羽に在る。観音寺に向って、参道右に六基、左に十一基が立つ。

(※1)『わたしの大和路』(奈良新聞開発局報道部 著)(Kヒ291.6 ナ)
(※2)『大和・音羽山中 観音寺ものがたり』(芝房冶 著)(K216.5 シ)
(※3)『音羽山 観音寺参道町(丁)石』(福井正浩 文・写真)(K216.5 フ)

 談山神社と藤原鎌足  (『図書館だよりvol.99』掲載分)

談山神社の創建は、藤原鎌足の長子・定恵(貞恵)が、遺骨を多武峯山で荼に伏したことから始まっていると、談山神社の縁起に記載されています。(※1)『延喜式』の「諸陵寮」(※2)には「多武岑墓 贈太政大臣一位淡海公藤原朝臣」と記載されています。

在唐中の天智八年(669年)十月、父鎌足は死去するが、この時、夢の中に父が現われて「自分を大和多武峯に祭り寺院を建立したなら、神として当峯に降り、守護しよう」と告げた。・・・・・実は生前に公は、定慧に対し同じようなことを語っていた。「談峯は神仙の霊崛であり、唐の五台山にも比すべきところだ。ここに墓を造るなら子孫は大いに栄えるだろう」と。この公の夢告が、談山神社創祀の起源となっているのだ。

一方、定恵は665年、唐から帰国直後に死去したとの記述もあります。(※3)

 『家伝』は定恵の死について、次のように書いています。 百済士人、窃かにその能を妬みて、毒す。即ち十二月二十三日を以て、大原の第に終る。 時に年二十三。道俗涕を揮い、朝野心を傷ましむ。  −以下略―

定恵は文字の読み書きに優れ、外交力もあり、鎌足の期待も大きかったようです。

帰朝の直後父に先立って死去したため、明確な事績は出家と入唐に尽きるといってよい。しかしながら『家伝』は貞恵の記述に少なからぬ分量を割き、中世の多武峯においては創建に関わる僧侶と伝承されたのである。

(※1)『大和多武峯紀行』(談山神社 編/綜文館)(K910.2 ヤ)
(※2)『延喜式 巻二十一』(藤原時平ほか 著)(R322.1 エ)
(※3)『談山神社物語』(中村之仁 著/日本書院)(K175.9 ナ)
(※4)『藤原家伝を読む』(篠川賢 編/吉川弘文館)(K288.3 ト)

 等彌神社と鳥見山  (『図書館だよりvol.98』掲載分)

鳥見山の麓に鎮座する等彌神社は、十世紀前半に制定された『延喜式』(※1)の神名帳にも記載されている延喜式内社で、千数百年の歴史と伝統を有しています。境内には、百六十基の石灯籠をはじめ、多くの石造物があります。『等彌神社の石造物』(※2)には、それらの石に刻まれている文字について詳しく掲載されています。

対象の石造物は、八百点以上あり、判読に時間も要しました。また石の刻字は、苔とほこり を払い除けるとその下から彫りが現れ、懐中電灯で角度を変えて照らすと字が判読できる こともわかりました。ただ石が痛んでいるものや彫りが浅いものは、大変読みづらいものあり 苦労しました。

鳥見山は、橿原神宮で即位した初代天皇・神武天皇が、霊畤を設け、最初の大嘗祭が行われたと伝えられ、榛原説と生駒説が存在しています。(※3)桜井説として明治42年に文学博士の久米邦武博士が実地調査して、『金鵄の光』を著しています。(※4)

 鳥見山の霊畤は、そのかみ天皇臨幸あつて、天神を祭り孝道を伸べ給ふ式場に設けたれ ば、畝傍山の皇居と東西相對して雙び、國民の仰ぎ瞻て尊敬を集めたる神聖の古蹟なり。 此にて執行されたる祭事は、後に神祇官にてなせし諸例祭の發源となり、就中國家至重の 禮典たる新嘗祭行はるゝ處にてあるべし。

(※1)『延喜式 九』(藤原時平ほか 著)(R322.1 エ)
(※2)『等彌神社の石造物 改訂版』(大倉好弘 編)(K216.5 ト)
(※3)『金鵄發祥史蹟考 全』(池尾宥祥 編輯/金鵄會)(K216.5 キ)<生駒説> 
    『皇祖霊畤旧蹟伝説記』(菊井惣鉄 著/鳥見山霊畤顕彰会)(K216.5 キ)<榛原説>
(※4)『金鵄の光』(久米邦武 著/大阪ホテル)(K216.5 オ)<桜井説>

 本居宣長と大和  (『図書館だよりvol.97』掲載分)

国学者本居宣長は、享保15年(1730)伊勢国松阪で生まれました。34歳の時、賀茂真淵に入門『古事記』研究に着手し56歳で『古事記伝』(※1)の出版活動を開始しています。研究の合間には旅に出ることも多く、明和9年(1772)には門弟友人たち5人と共に、初瀬・吉野から飛鳥へと訪ねています。『菅笠日記』(※2)には、初瀬から見下ろした景色には感動しているようすが書かれています。

ことし明和の九年といふとし。いかなるよき年にかあるらむ。よき人のよく見て。よしといひ おきける。吉野の花見にと思ひたつ。・・・西たうげ角柄などいふ山里を過て。吉隠にいたる。 こゝはふるき書どもに見えたる所にしあれば。心とゞめて見つゝゆく。猪養の岡。又御陵などの事・・・なほ山のそはぢをゆきゆきて、初瀬ちかくなりぬれば。むかひの山あひより。かづらき山うねび山などはるかに見えそめたり。・・・あざあざと見わたされたるけしき。えもいはず。

宣長が、なぜ吉野への旅立ちを決めたのかというのは、自分の出生にまつわることからでした。それだけではなく、古代の歴史の中心にある土地を自分の目で確かめるためでもありました。(※3)

 宣長はかねがね自分が吉野水分神社(子守明神)に父が祈願して生まれたということを 聞いていた上、吉野こそは彼が愛してやまぬサクラの名所であるところから、すでに宝暦 六年に書いた『在京日記』の中でも「今とし吉野の花見にまいらまほし。年ごろねがひ侍ら ず」と書いているように、文字通りの祈願の旅であった。

図書館だより・文学の散歩道で、明治の文学者たちをおってきましたが、この号でひとまず終えることとします。次回の4月号からは、桜井市や奈良県など郷土に関する事項を掲載していきます。よろしくお願い致します。 

(※1)『古事記伝』(本居宣長 著/岩波書店)(B913.2 モ) 
(※2)『本居宣長全集 第9巻』(本居宣長 著/筑摩書房)(121.5 モ)
    『新日本古典体系68 近世歌文集 下』(鈴木淳 校注/岩波書店)(918 シ) 
(※3)『日本文化史研究 第14号』(青山茂 文/日本文化史学会)(K210.1 ニ)  

 樋口一葉 から 「郷土の道しるべ」 へ  (『図書館だよりvol.96』掲載分)

樋口一葉は、明治5年(1872)東京都で生まれました。小学校を主席で卒業後、14歳で中島歌子の歌塾に弟子入りします。20歳より、小説家として生きることを決意しますが、生活は苦しく多方面から借金を繰り返します。日記にも書かれています。(※1)

二重どん子の丸帯一すぢ、緋はかたの片かはと繻珍繻子の片かは、ちりめんの袷衣二つ、 絲織一つ也、夫にてよしとて約束なる、此の夕べ西村君來たる、事情ものがたりて道具を 買ひくれ度よしたのむ為まねきつる也。

25歳で「たけくらべ」」(※2)を『文學界』に発表後、露伴・緑雨・鴎外などから絶賛されて以後は、小説家としての地位を固め、春陽堂からは専属作家として契約を求めらます。小説家をめざした頃から、一葉は盛んに上野図書館に通いました。(※3)

 一葉は時間があれば、上野の図書館へと通い、図書館通いはピークを迎える。これは 小説の種さがしもさることながら、ひとりで読み書きに没頭する時間と場所が切実に 必要とされたのだろう。誰にも煩わされずに自分だけの時間と空間をもつことができる 図書館は、貧しい都市生活者に開かれた得難い隠れ家だった。

図書館だより・文学の散歩道で、明治の文学者たちをおってきましたが、この号でひとまず終えることとします。次回の4月号からは、桜井市や奈良県など郷土に関する事項を掲載していきます。よろしくお願い致します。 

(※1)『ザ・一葉』(樋口一葉 著/第三書館)(918.68 ヒ) 
(※2)『にごりえ・たけくらべ』(樋口一葉 著/岩波書店)(B913.6 ヒ)
(※3)『樋口一葉をよむ』(関礼子 著/岩波書店)(910.2 ヒ)

 馬場孤蝶 から 樋口一葉  へ  (『図書館だよりvol.95』掲載分)

馬場胡蝶は、明治2年高知で生まれました。10歳の時、両親とともに上京。21歳で明治學院普通學部入学、卒業後は、高知の共立學校教師に赴任します。25歳で帰京後、『文學界』の同人に加盟して、はじめての詩「酒匂川」(※1)を発表しました。
以後小説、随筆、俳句など誌上で活躍しました。明治39年から昭和5年まで、慶應義塾で文學部教授を務め、72歳肝臓がんのため死去。

秋風立ちし 昨日今日  野面の色も 物さびて 行水の瀬に 愁ひある 夕のかげは 静かなり
殊さら雲は  朝より 高峯を出でゝ 空にみち 西の入日も 微かにて 茜の色も 包まれぬ

随筆「蝶を葬むるの辭」(※2)を、高山樗牛は「正に是れ所謂厭世思想の絶頂、其語美はしくも穏やかなれども、其意の激しく暴きは、バイロンがマンフレッドも、よもや是の上に出づる能はざるべし」((※2)の、あとがきより抜粋)と、評しました。

 汝知らずや、かばかり不公平なる世に生まれ来て、己を立て、己の自由を求め、己の権利 を求むることの如何に無益なるかを。我等は服従する為に作られたり、我等は虐君を讃美 せんが為めに作られたり、我等は我等自らの為に生活することを許されず、我等は只神の 楽の為に、悲の深淵に落され、恐怖の谷に投ぜらるゝなり。

胡蝶は、一葉の日記を博文館より出版する際に、校正を手がけました。 

(※1)『明治文學全集60 明治詩人集(一)』(外山正一 著/筑摩書房)(918.6 メ)
(※2)『明治文學全集 32女學雑誌文學界集』(巌本善治 著/筑摩書房)(918.6 メ)  

 斎藤緑雨 から 馬場孤蝶  へ  (『図書館だよりvol.94』掲載分)

齋藤緑雨は、慶應3年三重県鈴鹿で生まれました。12歳の時、父親の影響で俳句に出会いました。詩分にも親しみ、14歳の頃より新聞に投稿などもはじめました。18歳で假名垣魯文の門下生となりました。21歳で『めざまし新聞』(『自由之燈』の後身)に入社以後、生稿を連載しはじめ文壇の世界で活躍しました。彼の文學には、辛口の批評や風刺がよく見られます。『眼前口頭』にも、それを感じさせる文章が多くあります。(※1)

○小説家とは何ぞや。小説にもならぬ奴の総稱なり。われは之を以て、最も簡単なる、 最も明白なる、恐らくは最も公平なる解釋とす。
○夫婦は戀にあらざること、言ふ迄もなし。夫婦は戀の失敗者と失敗者とを結び合わせ たるものなること。亦言ふまでもなし。「鮨をと思つたが蟇口の都合で蕎麦にして置くのだ」 とは、われの既に言へる所なり。

31歳の時に、初めて馬場孤蝶と出会い、急速に親しくなりました。38歳、肺患の為永眠しています。孤蝶は『齋藤拷J君』を書いています(※2)

 私は齋藤君の人物に就いて一應辯じて置きたいと思ひます。世間では如何にも冷酷な 人であつたとか、如何にも意地の惡い人であつたと思つて居るらしい。・・・私の目から見 れば、思慮の綿密な人で面と向つて話をして居る時は餘程容赦をして、人の感情を損ふ やうな言葉を用ゐないやうにして、婉曲に話をする人で、また人に對しても察しの深い、 情に厚い所があつたやうに思はれるのです。- 

(※1)『緑雨警語』(斎藤緑雨 著/冨山房)(917 サ)
(※2)『明治文学全集28斎藤緑雨集』(斎藤緑雨 著/筑摩書房)(918.6 メ)  

 坪内逍遥 から 斎藤緑雨 へ  (『図書館だよりvol.93』掲載分)

坪内逍遥は、安政6年美濃国に生まれました。幼い頃より芝居ごっこが好きでした。14歳の時愛知洋学校で英語を学び、シェークスピヤ劇に出会います。18歳開成大学(現東京大学)・文学部に入学、英国小説を愛読し、私立進文學社で英語を教えたり、翻訳もしました。28歳で『小説神髄』(※1)を刊行。32歳よりシェークスピヤの講義や翻訳を始めるなど、シェークスピヤとは終生を通じ関わりました。(※2)

此舞台を中心にした研究、坪内博士の所謂実演本位の研究は、特に二十世紀に入つてから目立つて進んで来た新傾向で、シェークスピヤ研究上で新世紀を過去の世紀から區劃する一大標識といつてもよい。即ちエリザベス時代の公設劇場の構造、特質、舞台装置、背景、大道具、小道具、衣装、音楽、鳴り物(擬音)、幕の使用法といつたやうな事から、当寺の劇団の組織、俳優、座付作者、彼らの経済、・・・其の時代の大多数の観客はどんな風であつたかといふ事まで、詳細な調べが行届くやうになつたのは、最近三十年間の功績であつた。

『小説神髄』では、小説と演劇を論じています(※1)

小説の演劇に優ること已にかくの如しといへども、唯々人心を感ぜしむる力に至りては演劇の力に及ぶべうもあらず。蓋し想像と目撃とはその感触の度元来おなじからざればなり。この故をもて小説を貶さむとするは、猶ほ些瑕あるをもて美玉を瓦礫の下に列せむとするがごとし。豈にあげつらふに及ぶことならむや。

文壇での交友関係が始まった頃、「今日新聞」の記者だった斎藤緑雨が一番初めに来訪しています。 

(※1)『小説神髄』(坪内逍遥 著/岩波書店)(B901.3 ツ)
(※2)『シェークスピア入門』(坪内逍遥 閲 中央公論社 著/中央公論社)(Kヤ932.5 シ)

 二葉亭四迷 から 坪内逍遥  へ  (『図書館だよりvol.92』掲載分)

二葉亭四迷は、文久3年江戸市ヶ谷に生まれました。本名は辰之助。17歳、東京外国語学校露語科に入学。成績優秀で、学費を支給されるほどでした。22歳で『浮雲』(※1)の稿をおこし、翌年初めて二葉亭四迷の名で刊行しました。親の世話を受けずに独立独学のためのお金を得るために書きました。(※2)

兎に角、作の上の思想に、露文学の影響を受けたことは拒まれんベーリンスキーの批評文なども愛読していた時代だから、日本文明の裏面を描き出してやろうと云うような意気込みもあったので、あの作が、議論が土台になってるのも、つまりそんな訳からである。文章は、上巻の方は、三馬、風来、全交、饗庭さんなどがごちゃ混ぜになってる。中巻は最早日本人を離れて、西洋文を取って来た。つまり西洋文を輸入しようという考えからで、先ずドストエフスキー、ガンチャロフを学び、主にドストエフスキーの書方に傾いた。それから下巻になると、矢張り多少はそれ等の人々の影響もあるが、一番多く真似たのはガンチャロフの文章であった。

二葉亭四迷は、22歳の時に坪内逍遥を初めて訪ねて以来、公私にわたり師事し頼っていました。「・・・逍遥はこんな二葉亭を許し、問題を持ち込むたびに相応の面倒を見てやる関係は永くつづいた」(本文引用)、こんな手紙も送っています。(※3)

農務省の方はまったく失敗に帰しました。・・・ついてはかねてよりお願いしていたとおり、この際二百円だけご融通いただきたいのです。委細は明後日うかがってお話するつもりですが、多忙のときですから必ずうかがえるとはいいがたく、まず書中にてお願いしておきます。

(※1)『浮雲』(二葉亭四迷 著/岩波書店)(B913.6 フ)
(※2)『平凡 私は懐疑派だ』(二葉亭四迷 著/講談社)(B913.6 フ)
(※3)『二葉亭四迷の明治四十一年』(関川夏央 著/文藝春秋)(910.2 フ)

 内田魯庵 から 二葉亭四迷  へ  (『図書館だよりvol.91』掲載分)

内田魯庵は、明治元年江戸下谷に生まれました。本名は貢、別号不知庵です。23年に出会ったロシア文学の『罪と罰』に(※1)深く感銘を受け、文人としての道を目指しはじめました。本書を初めて訳したのも魯庵です。評論家・作家・翻訳家など多方面にわたり活躍した魯庵ですが、夜の銀座を徘徊してその風景を満喫したり、読書を自然体で楽しむ姿など、人間味あふれた側面も持っていました。(※2)

脚力も健康も無い上に無精で横着な私は行脚の代りに夙くから読書に放浪した。 マダ五ツ六ツのイロハも碌すっぽ読めない時分から絵本を片時も離さず手にしたり 懐ろにしたりしていた。夫から以来何十年書籍の間に埋もれているが必ずしも読むの では無い。勉強するのでは無い。特急の汽車で昼夜兼行する飛脚屋のような読書は 余り好きで無いので、晴行雨留、折々は迂回したり岐路に入ったりして道草を喰いくい 日程も目的地も定めずに転蓬する西行や芭蕉の行脚のような読書を私は楽んでおる。

魯庵は25歳の時に二葉亭四迷と出会い、急速に親しくなりました。最初に出会った思い出や、彼の人となりを『思い出す人々』(※3)に温かみのある文章で綴り、「誰に会った時よりも二葉亭との初対面が最も深い印象を残した」とも述べています。

風采は私の想像と余りに違わなかった。沈毅な容貌に釣合う錆のある声で、極めて 重々しく一語々々を腹の底から搾り出すように話した。口の先きで喋べる我々はその底力 のある音声を聞くと、自分の饒舌が如何にも薄ッぺらで目方がないのを恥かしく思った。

(※1)『罪と罰』(ドストエフスキー 著/岩波書店)(983 ド)
(※2)『魯庵随筆 読書放浪』(内田魯庵 著/平凡社)(914.6 ウ)
(※3)『新編 思い出す人々』(内田魯庵 著/岩波書店)(910.2 ウ)

 笹川臨風 から 内田魯庵  へ  (『図書館だよりvol.90』掲載分)

笹川臨風は、明治3年東京神田に生まれました。父が内務省土木の役人だったため、小学校は大阪・名古屋と転校しています。東京帝国大学入学後は寄宿舎に入り、姉崎嘲風とは同室でした。専攻は日本美術史で、『帝国文学』の編集に参加した他に、句会も結成しました。「櫻花記」(※1)には、奈良の自然を記述しています。

奈良は春の古都なり。秋は淋しくしてあはれに、鹿の聲など聞えて、咲く花の匂ふが如き面影を偲ぶに由なし。霞たなびく法隆寺の古塔、陽炎燃ゆる薬師寺の舊墟、淋しきなかに春色滿てり。二月堂三月堂のほとりに立ちて沈々たる舊都を望めば、花遠近に咲きこぼれて、一千年の春の名残を留む。長谷の花は高廊にらふたげに、花の中宿の夢は花神に通ふ。吉野は歌書よりも軍書に悲しく、六田の渡頭、朧にかすむ月は花影を映じ、一目千本の暁、行人花の雲を踏んで林間を過ぐと雖も、塔尾御陵の花は悲風今に至りて吹けり。

臨風は、帝大卒業後文學社の『日本歴史教科書』などを編纂します。明治34年九月『奈良朝』を出しました。(※2)

盛なるかな奈良の朝。是れ帝王か最も其威を中外に示し給ひし時なり。よしや帝聖武の 政治上に技倆は之を疑ひ奉つるとするも、其規模の大にして、大土木を興し、美術に、工藝に、文學に、長足の進歩を興へ給ひたる偉蹟あるは、讃し奉つらざるを得ざるなり。

臨風と内田魯庵は、東京の松前小学校という同じ小学校に通っていました。 魯庵が亡くなったときには、臨風らによって友人葬が営まれました。

(※1)『現代日本文學全集13』(笹川臨風 著/改造社)(918.6 ゲ)
(※2)『奈良朝』(笹川種郎 著/博文館)(K 210.3 サ)

 姉崎嘲風 から 笹川臨風 へ  (『図書館だよりvol.89』掲載分)

姉崎正治(嘲風)は、1873年京都府に生まれました。東京帝国大学卒業後、宗教学研究のために文部省から留学、ドイツ・イギリスなどで学びました。文才もあり、帝大時代には高山樗牛らと『帝国文学』を創刊しました。第17巻に「青年の文學と中年の文學」(※1)を掲載しました。

眞の藝術に年齢はなし筈。萬古を照らす大作は年齢の支配を受けない。然しその作に従事する人の心持ちがその作に現はれるとすれば、人間の齢が、多少は藝術の中に現はれるのは已むを得ない事。ゲーテのエルテルには青年の熱情が湧いて居、馬琴の八犬傳には老人の繰言が交り、ラファエルの畫には總て壯年の元氣が見え、ワッツの「死の判庭」には靜かに八十年の生活の最後を迎える人の沈着が現はれる。・・・不朽の傑作といふのは決して抽象的に概念の上で、人生天然に通じた遍通相を代表するといふ意義でなく、直に事實に基き、具體的に特別の事情から湧いて出た現實を捕へて、而もその特殊現實の中に不朽遍通の大消息を傳へるといふ點にある。

嘲風は、留学からの帰途中に樗牛の訃報に接します。帰国後、墓に詣でた様子を追憶文「C見潟の一夏」に、書いています。(※2)

夏の海のうねり高し、一見すれば静なる事鏡の如く、而も其の中に大なる波動を蓄へ、岸に近づけば巖を?み砂を捲き來つて、勢ひ迎ひ近づくべからず。夏の海、汝何ぞ偉人の心に似たるや。

笹川臨風とともに『樗牛全集』も編集しました。

(※1)『明治文学全集 40』(高山樗牛 著/筑摩書房)(918.6 メ)
(※2)『現代日本紀行文学全集 補巻一』(志賀直哉ほか 著/ほるぷ出版)(915.6 ゲ)

 齋藤野の人 から 姉崎嘲風 へ  (『図書館だよりvol.88』掲載分)

齋藤野の人は、六男三女の兄弟のうち四男として生まれました。高山樗牛は次男でしたが、何かにつけ優れているこの兄とは、常に比べられていたようです。受けがよかった兄に比べ、大人しく無口な子どもでしたが、二高に入学後、文才を発揮しはじめました。(※1)

明治三十一年野の人は西片町の樗牛の家で新春を迎え、一月十日帰仙したが、 この年はそれまで不肖の弟と評価されていた野の人をして「さすがは樗牛の弟だ」と 学友に再認識させるという佳い年でもあった。
それは四月に行われた尚志会雑誌の懸賞文当選である。当時編集主任は内ヶ崎 作三郎で委員は深田康算や島地雷夢などであった。・・・漢文の教授をしていた大須賀 ?軒の出題で「春夜月に対す」と題して、文学志望の若い学生の多くが競って才筆を ふるって応募した。野の人はここで二等の栄誉を獲得した。

野の人も、兄の思い出を「亡き兄高山樗牛」(※2)に書いています。

確かに彼は魔力を持って居つた。而して彼は飽く迄もこの才気とこの感情で 生涯押し通した方で、学問は雑誌記者として後年を送くつたから、やる閑がなかつた  らしい。読んだ書と云うてもそんなに多くはなかつたが、併し要領を?まえて 直に其本の価値を批判し得ると云ふ點は予ながら敬服せざるを得ない。

彼も病弱で31年という短い生涯でしたが、友には恵まれ、姉崎嘲風もその一人です。

(※1)『近代文学研究叢書 10』(昭和女子大学近代文学研究室 著/昭和女子大学)(910.2 シ)
(※2)『明治文學全集 40』(高山樗牛 著/筑摩書房)(918.6 メ)

 高山樗牛 から 齋藤野の人 へ  (『図書館だよりvol.87』掲載分)

高山樗牛は、明治4年山形県で生まれました。幼き頃より文才があり、13歳で『小学雑誌』に作文を発表しています。第二高等中学校も主席で卒業、翌年24歳のときに懸賞募集に応募するために書いた小説『滝口入道』(※1)は、優等賞に当選しています。
31歳頃より、ニーチェを讃美し「文明批評家としての文學者」(※2)を『太陽』に発表しています。

彼れは青年の友としてあらゆる理想の敵と戦へり。彼れは今のあらゆる学術の訓へ 得るよりも更に更に大いなる実在の宇宙に充満せるを認めたり、同時に是の実在を認識し、 其の秘密に到達せむには、今の所謂学術道徳の甚だ力無きを認めたり、彼れは其の 預言者の眼によりて其方法の何者なるかを知りぬ。彼れが當代の文明に反抗して其の 神経奇矯なる個人主義を唱ふるに至りしもの、亦眞に巳むを得ざりしならむ乎。

樗牛の人生観や思考は、「郷里の弟を戒める書」(※3)の中に垣間見られます。

人物の鍛錬は行住坐臥、一念時も忘ずることあるべからず候へども、分けて古人 の伝記など甘読熟量せむこと最も肝心と存じ候。吾等の生息する今日は過去無量劫に  比すれば泡沫夢幻の短日月也。・・・書を読み道を求めむもの、這個の三昧に入ら ずむば、是れ宝の山に入りて手を空しくして帰らむにも似たるべく候。

齋藤野の人は、高山樗牛の実の弟です。

(※1)『滝口入道』(高山樗牛 著/岩波書店)(913.6 タ)
(※2)『明治文學全集 40』(高山樗牛 著/筑摩書房)(918.6 メ)
(※3)『新学社 近代浪漫派文庫 8』(北村透谷・高山樗牛 著/新学社)(911.56 キ)

 土井晩翠 から 高山樗牛  へ  (『図書館だよりvol.86』掲載分)

土井晩翠は、明治31年東京音楽学校の要請を受け、『天地有情』の中に「荒城の月」(滝廉太郎/曲)を書いています。(※1)

春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 千代の松が枝わけ出でし むかしの光いまいづこ。
秋陣営の霜の色 鳴き行く雁の数見せて 植うるつるぎに照りそひし むかしの光今いづこ。
いま荒城のよはの月、変らぬ光たがためぞ 垣に残るはただかつら、松に歌ふはただあらし。
天上影は変らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなほ あゝ荒城の夜半の月

彼は、第二高等学校教授をつとめる傍ら、ホメロスの「イーリアス」「オヂュッセーア」をギリシャ語原典から訳しました。(※2)二高時代からの友人で詩の仲間である高山樗牛との思い出を「学生時代の高山樗牛」として書いています。(※1)

樗牛君は目が爛々と光つて口が大きく、鼻が高くて、例の二本の白筋をつけた  帽を、やや阿弥陀冠にして、顔をやゝ斜に、顎を突きだして(仲間からアゴといふ綽名  を頂戴したが)肩で風を切つて堂々と校の内外を闊歩した姿が四十年後の今にも  目前に浮ぶ。文学会、英語会、雑誌部では勿論、第一のチャンピオン。更にベース  ボールやテニスにも盛に出しやばつた。(ベースボールは当時の英語教師ハレルと  高山とが発起したのであつた)如上の次第で威名が全校を圧して、我々の目には 教授連よりも一生徒高山がえらく見えたのであつた。  

高山樗牛は、少年期より雑誌に投稿するなど文才を発揮していました。

(※1)『新学社 近代浪漫派文庫 12』(土井晩翠・上田敏 著/新学社)(911.56 ド)
(※2)『イーリアス』(ホメーロス作/土井晩翠訳/三笠書房)(Kヤ991.1 ホ)

 上田敏 から 土井晩翠 へ  (『図書館だよりvol.85』掲載分)

上田敏は、東京帝国大学英文科卒業後、多くの訳詩をしています。32歳の時には、「遙かに此書を滿州なる森鴎外氏に獻ず」として始まる『海潮音』(※1)が出版され、多くの外国詩が紹介されています。本書によって、西欧近代詩の真髄が伝えられました。)

カアル・ブッセ
  山のあなたの空遠く   「幸」住むと人のいふ。
  噫、われひとゝ尋めゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。
  山のあなたになほ遠く  「幸」住むと人のいふ。

彼はまた、日本の近代詩の先駆者として、与謝野晶子のことを高く評価して「『みだれ髪』を読む」に、書いています。(※2)

『明星』の女詩人晶子鳳氏の歌集『みだれ髪』は瀟洒たる一篇の美本に綴られ、 斬新の声調、奇抜の思想を歌ひ、この夏文界の寂寥を破りて、殊に歌壇の語り 草となりぬ。兎角の世評、われは読み破らむ根気も無けれど、?態を歌ひ、恋 情を煽るに過ぎずと、おほまかの月旦に云ひけたむとする今の評家は日頃の文 芸論、審美説にもふさはしかからず、かゝる折にのみ道学先生の口吻を摸ぬる 可笑しさよ。  

東京帝国大学英文科の同窓生に土井晩翠がいます。2人は共に「帝国文学」(月刊)の編集委員をしていました。晩翠は上田敏のことを秀才と評し、不可能だった完訳詩を可能にしたとさえ言っています。

(※1)『上田敏全訳詩集)』(山内義男・矢野峰人 編/岩波書店)(908.1 ウ)
(※2)『新学社 近代浪漫文庫 12巻 土井晩翠・上田敏』(新学社)(911.56 ド)

 石川啄木 から 上田敏 へ  (『図書館だよりvol.84』掲載分)

石川啄木は、16歳の明治35年10月に上京、翌月には新詩社の集会に参加、与謝野鉄幹に初めて接しました。翌日には家を訪問したことを日記に記しています。(※1)

女子大学の前より目白ステーションに至り直ちに乗車して渋谷に到る、里路の屈曲多き を辿ることやゝ暫く青桐の籬に沿ふて西に上り詩堂に入る。
先ず晶子女子の清高なる気品に接し、座にまつこと少許にして鉄幹氏莞爾として入り 来る、八畳の一室秋清うして庭の紅白の菊輪大なるが今をさかりと咲き競ひつゝあり。
談は昨日の小集より起して漸く興に入り、感趣湧くが如し。かく対する時われは決して 氏の世に容られざる理なきを思へり。

鉄幹の期待に応えるべく、啄木のペンネームを使い始め、明治36年12月号の雑誌『明星』に長詩「愁調べ」5編を掲載、注目されます。(※2)翌々年には、第一詩集『あこがれ』を友人の出版社の好意で刊行します。(※2)本書には77編の詩を収め、啄木はこれによって明星派詩人とての名声を高めました。

「月と鐘」
あまぢはるかに古里の 楽の名残をつぐるとて、
さくらの苑におぼろなる 夢の色ひく月の影。
花は眠れど、人の子の 夢なりがたき旅ごころ、
とはの眠りに入りよとて 月に泣くらむ夜代の鐘。 (『あこがれ』より) 

この詩集には、上田敏による序詞と、与謝野鉄幹の跋文が寄せられています。 

(※1)『石川啄木(人物叢書)』(岩城之徳 著/吉川弘文館)(910.2 イ)
(※2)『石川啄木全集 第2巻』(筑摩書房)(911.56 イ)

 与謝野寛 から 与謝野晶子 そして、石川啄木 へ  (『図書館だよりvol.83』掲載分)

与謝野寛こと鉄幹は、明治32年東京で、東京新詩社を結成し翌年には「明星」を創刊しました。また、古典や漢学に通じていましたので『日本古典全集』(第一期・二期)を編集しました。後世に残る仕事をすれば、売れなくてもよいと商売化はなかったと、息子の光は『晶子と寛の思い出』(※1)の中で記しています。

『古典全集』だって、うまく当たってたのに父が無理を言って潰れたんです。あんまり 理想主義で、一冊一円なり五十銭なりでは盛りきれないようなものまで入れて、良心 なものを出そうとするから・・・・・。「損してもいいじゃないか、後世に残ればいい」なん てうちの父が・・・。それじゃあ経済界は通らないからね、それで潰れたんです。

明治33年、新詩社拡大の為に、関西を訪れた鉄幹と晶子は出会います。その後の晶子は、影響を大きく受け、一途な思いは『みだれ髪』(※2)の中で、多く詠んでいます。

わが歌に瞳のいろをうるませしその君去りて十日たちにけり
                行く春の一絃一柱におもひありさい火かげのわが髪ながき 

晶子は、石川啄木を弟のように思い、啄木もまた姉のように慕っていました。その啄木が若くして亡くなった時、その死を悼んで数首の歌を残しています。 

いつしかと心の上にあとかたもあらずなるべき人と思はず
この歌は、岩手県、玉山村の「石川啄木記念館」の小高い丘に歌碑として建てられている。(※3)

(※1)『晶子と寛の思い出』(与謝野光 著/思文閣出版)(911.16 ヨ)
(※2)『日本の詩歌 4』より「みだれ髪」(与謝野晶子 著/中央公論社)(911.08 ニ)
(※3)『与謝野晶子と周辺の人びと』(香内信子 著/創樹社)(910.2 ヨ)

 森鴎外 から 与謝野寛 へ (『図書館だよりvol.82』掲載分)

森鴎外が、奈良とのかかわりが深くなったのは、大正五年に医務局長を辞任した後、翌年に帝室博物館総長兼図書の頭となってからです。大正七年〜十一年の間に四度、秋の正倉院の開扉に立ち会ったりして、訪れています。この時の様子が「委蛇録」に記されています。(※1)奈良へ出張に行った時の用品控えも記録されています。(※2)

奈良出張用品控  机小、膳一、茶碗一、皿二枚、小丼一、飯鉢一、杓子一、塗箸、 火鉢陶、火箸、茶、醤油上、鰹節一本上、炭一俵、米、奈良漬、梅干、角砂糖上、卵二十、 土瓶一、湯呑一、小刀鰹節用、市の圖

明治25年、鴎外は「観潮楼」を建てました。ここでは自ら発刊した雑誌「めざまし草」や新刊の合評会を露伴、紅葉達としたり、後には月例の歌会も開催されました。(※3)

この「観潮楼」の歌会は竹柏園の佐々木信綱、新詩社の与謝野寛、根岸派の佐藤 左千夫の三人を中心として毎月一回催されたもので、与謝野門下が最も多数で 与謝野晶子、石川啄木、吉井勇、木下杢太郎、北原白秋、平野万理の諸氏で、 多くは結び字の題で詠み競い、雪中語に用いた同じ用紙に各人の歌を清書してまわし、各自がその選をし、最後にその日の結果を朗読する例になっていた。

鴎外は、正岡子規の「根岸派」と与謝野寛の「新詩社」との対立の仲立ちをするために、両派に呼びかけました。

(※1)『森鴎外全集 第三十五巻』(森鴎外 著/岩波書店)(918.68 モ)
(※2)『森鴎外全集 第三十八巻』(森鴎外 著/岩波書店)(918.68 モ)
(※3)『耄碌寸前』(森於菟 著/みすず書房)(914.6 モ)

 夏目漱石から森鴎外 へ (『図書館だよりvol.81』掲載分)

漱石は、高浜虚子の薦めで、「ホトトギス」にはじめて書いた小説が『吾輩は猫である』(※1)です。最初から長編のつもりではありませんでしたが、虚子が面白がり、読者の反応も良く、長くなっていきました。本書は、猫からみた人間社会で、文明時代への鋭い観察や風刺がありますが、全編を通してユーモラスです。漱石は、実業家が嫌いらしかったと書いているのは、孫娘の夫である半藤一利です。(※2)

いよいよ発展していく産業、ますます工業化されていく明治の華やかな文明。とこ ろが、その嫌悪すべき象徴のごとくに金田夫妻らを描くのは、どうしてなのか。はっきり いって、漱石のこの産業社会を嫌忌する気持ちは、一朝一夕のものではない。そもそも が留学時代の経験にかかわる。煤煙と塵埃の街ロンドンで、漱石の吐いた啖は真っ黒 であった。少なくともそこに発するものと考えられる。

漱石は24歳のとき、森鴎外の作品に触れ評価しましたが、正岡子規が怒ったために、このような手紙を書いたと紹介されています。(※3)

「・・・鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之、是も小子嗜好の下等なる故と只管慙愧致居候。・・・」  実際、わずか五歳の年長だというにすぎない鴎外森林太郎の達成が、金之助にどれほどの衝撃をあたえたかは想像にかたくない。

(※1)『吾輩は猫である』(夏目漱石 著/岩波書店)(913.6 ナ)
(※2)『漱石先生ぞなもし』(半藤一利 著/文藝春秋)(910.2 ナ)
(※3)『漱石とその時代』(江藤淳 著/新潮社)(910.2 ナ)

 高浜虚子から夏目漱石 へ (『図書館だよりvol.80』掲載分)

高浜虚子は中学生の時、松山に帰省した折にはじめて、正岡子規を訪問して、いろいろと話を聞きました。その後、子規と碧梧桐と三人でご飯を食べたときの様子の記述があります(※1)

その帰りに「歩いて帰らう」と子規が言ひ出して、わざと一里半の夜道を歩いて松山へ帰りましたがその途々連句を作りました。私と碧梧桐とは連句といふものがどんなものなのかそれさへ知らなかったのを子規は一々教へながら作つたのであります。なんでも松山に帰り着くまでに表六句が出来たかと記憶します。

子規の死後、虚子は俳句への考え方で碧梧桐と合わず、小説の方へと熱意を傾けますが、四十歳ごろから、また俳壇復帰を決意し数々の俳句を残しました。そして、同じく俳句の途を目指した次女星野立子へのことばは、愛情あふれる俳話です。(※2)

今までやって来た事をまっすぐに進むのがよかろう。左顧右眄してああでもない こうでもないと思って居る間に徒に日が経ち気力も衰えてそれだけ損をする。一直線に進むことである。向こうに大いなものが待ち受けてくれて居る。

中学生だった虚子が出会い、影響を受けたもう一人が、子規の親友で大学生だった夏目漱石です。 (※3)子規没後も、漱石と虚子の交流は続きました。

(※1)『作家の自伝6 高浜虚子』(日本図書センター)(910.2 タ)
(※2)『立子へ抄』(高浜虚子 著/岩波書店)(911.36 タ)
(※3)『回想 子規・漱石』(高浜虚子 著/岩波書店)(911.36 タ)

 正岡子規から高浜虚子へ (『図書館だよりvol.79』掲載分)

24歳の時、四国松山から上京してきた正岡子規は、呉竹の里として有名な根岸に住み、ここを拠点に著作に打ち込み、歌人として<竹の里人>と名乗りました。「墨汁一滴」(※1)の中で、根岸について随筆しています。

この頃根岸倶楽部より出版せられたる根岸の地図は大槻博士の製作に係り、地理の細精に考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今鶯横町といへど昔は狸横町といへりとぞ。・・・中にも鶯横丁はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて空しく帰る俗客もあるべしかし。

子規は35年という短い生涯を結核という病に苦しめられますが、病床にあっても、いつも誰かが訪ねてきていて、句会や短歌会をしたり、自然や風景を楽しむという姿勢を最後まで貫きました。「竹の里歌」には、ガラス戸を通して観察した歌があります。(※2)

ガラス戸の外は月あかし森の上に 白雲長くたなびける見ゆ
ガラス戸の外の月夜をながむれど ラムプの影のうつりて見えず
ほとゝぎす鳴くに首あげガラス戸の 外面を見ればよき月夜なり

当時、まだ珍しかったガラス障子を、庭を見られるようにと、子規の病室に取り付けたのは、高浜虚子でした。

(※1)『墨汁一滴』(正岡子規 著/岩波書店)(914.6 マ)
(※2)『日本の詩歌 3』(中央公論社)(911.08 ニ)

 斎藤茂吉から正岡子規へ (『図書館だよりvol.78』掲載分)

斎藤茂吉は、第一高等学校在学中に正岡子規の代表的歌集『竹の里歌』(※1)に出会い、大きな影響を受け、自分の歌作の方向性を確信しました。その後、青山脳病院の院長を務めるかたわら、歌人として、アララギ派の中枢で活躍しました。『コレクション日本歌人選 斎藤茂吉』には、歌四十八首が、解説文とともに掲載されています。(※2)

木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり
               【出典】『赤光』所収(明治43年)「をさな妻」中】
茂吉の上京は十五歳、このとき輝子は二歳だった。少年の茂吉がいまだ赤子の輝子を背負って子守をしたり、友人に「僕のワイフだ」と答えたりしていたという。以来、茂吉は輝子の成長を見守り、妻となる日を待つことになる。

本書には、若い茂吉の歌から、その後の波瀾にとんだ人生に迫る歌、そして晩年の歌が順を追って掲載されています。

いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるらしも
               【出典】『つきかげ』所収(昭和27年)「無題」中】
太陽が沈み行くように、自分の命の終焉が近づきつつあることを予感している歌。

斎藤茂吉に多大な影響を与えた、正岡子規は、松山から上京後、根岸に家を構え、この時の様子を「根岸草盧記事」というエッセイに書いています。(※3)

(※1)『日本の詩歌 3 新訂版』(中央公論社)(911.08 ニ)
(※2)『コレクション日本歌人選018』(小倉真理子 著/笠間書院)(911.16 コ)
(※3)『現代日本文学全集 第11篇』(改造社)(918.6 ゲ)

 土屋文明から斎藤茂吉へ (『図書館だよりvol.77』掲載分)

歌人であり、国文学者でもある土屋文明は、『万葉集』の研究で知られています(※1)が、『歌の大和路』(※2)の中で、初瀬を詠んだ歌を、訪れた思い出と共に書いています。

初瀬のゆ槻が下に我が隠せる妻あかねさし照れる人月夜に見てむかも  (巻十一・二三五三)
長谷の初瀬川沿いの道は、・・・紅葉しかけたツキ、すなわちケヤキの立木がひどく目に付く。住宅の屋敷木、神社の、寺院の境内の森の木のようだが、いやでも、万葉の歌を恩い出ださないでは相すまぬような、ツキの紅葉のつづきであった。

『万葉集』には、大和を舞台にした名歌が多く、本書でも“あこがれの大和奈良”と土屋文明は表しています。

あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり (巻三・三二八)
作者小野老は大宰少弐として、長く筑紫の大宰府にあり、大弐に進んで、筑紫でなくなった人だが、この歌は、筑紫から、遠い奈良の花やかさに、あこがれながら、思いをこめて歌ったものだろう。奈良に対するあこがれは、遠い筑紫では、だれもかれも心に抱いていたものとみえる。

土屋文明は、1930年斎藤茂吉から、「アララギ」の編集発行を受け継ぎ、アララギ派の中心的立場となりました。(※3)

(※1)『万葉集私注 1〜10』(土屋文明 著/岩波書店)(K911.12 マ)
(※2)『歌の大和路』(土屋文明・猪俣静彌 文/田中真知郎 写真/朝日新聞社)(K291.6 タ)
(※3)『斎藤茂吉短歌合評 上下』(土屋文明 編/明治書院)(911.16 サ)

 霜山徳爾から土屋文明へ (『図書館だよりvol.76』掲載分)

霜山徳爾は、『人間の限界』の中で、限界を知り、できることとできないことがあることを分別することは重要であり、そこにこそ人生の意味があると、述べています。

「限りないもの」と人間の限界という問題を考える時、いつでも胸に浮かぶのは、ミケランジェロの、未完の彫刻、ロンダニーニのピエタ像である。九十二歳の垂死の孤老が最後までとりくんで、途中で彼の手から鑿が落ちたこの未だおぼろげな彫刻は「今を限りの」作品でありながら、あらゆる彼の他のピエタ、他の名作よりも、「限りないもの」への深い感動を与えずにはいない。

人間をみつめて、私たちの足(私たち自身)は、大地なのかもしれないと著しています。最初の人間「アダム」とは、ヘブライ語で「大地」を意味しています。

ギリシア神話において、アンタイオスは大地の母ガイアの子であるために、ヘラクレスによってどんなにひどく投げつけられても、足が地に着くやいなや、たちまち元気を回復する。地に足がついている人間は何とか気力を取り戻しては修羅を歩むものである。人よりも 忍ぶをただに 頼みとす わが生ぞさびし 子と歩みつつ」

この歌は、昭和9年、土屋文明が45歳の時の作品です。(※1)

(※1)『土屋文明歌集』(土屋文明 自選/岩波書店)(911.16 ツ)

 V.E.フランクルから霜山徳爾へ (『図書館だよりvol.75』掲載分)

『夜と霧』(※1)は、フランクル教授自身の、ドイツ強制収容所の体験が記録されています。
アウシュヴィッツだけでも、三百万人の尊い人命が、絶たれました。その中を奇跡的に生き延びた一心理学者は、冷静に「限界状況」における人間の姿を理解しようとしています。その姿は、時には明るささえ感じさせるほどの強さがあります。

われわれはすべての起こること、及びその結果が何であるかについて好奇的であった。たとえば一糸纏わぬ裸体で、まだ水に濡れたまま晩秋の寒さの中に戸外に立たされたことがどんなことになるかと思っていたところが、翌日になってわれわれの誰も鼻風邪ひとつひかなかったのには驚かされた。・・・医学の教科書は偽りを述べていることであった。

フランクルは、極限状態の中での救いは、「愛」だと判ったとも書いています。

たとえもはやこの地上に何も残っていなくても、人間はー瞬間でもあれー愛する人間の像に心の底深く身を捧げることによって浄福になり得るのだということが私に判ったのである。

この本の訳者霜山徳爾も、フランクルと同じく、心理学者です。(※2)

(※1)『夜と霧』(V.E.フランクル 著/みすず書房/1985年出版)(946 フ)
(※2)『人間の限界』(霜山徳爾 著/岩波書店)(114 シ)

 ジョン・ロールズからV.E.フランクルへ (『図書館だよりvol.74』掲載分)

『正義論』(※1)は、「個人のかけがえなさと自由が認められること、社会が誰にとっても暮らしやすいものであること」を追求したロールズの正義論です。

生まれつき恵まれた立場におかれた人びとは誰であれ、恵まれない人びとの状況を改善するという条件に基づいてのみ、自分たちの幸運から利益を得ることが許される。

というロールズの言葉は、支配的な伝統をなしてきた功利主義に対して、個人のかけがえなさと自由が認められること、社会が誰にとっても暮らしやすいものであることが、公正としての正義だと主張しています。その背景には、彼の戦争体験があります。レイテ島での攻防戦やルソン島での戦友の死、そして一番影響を受けたのが、ナチスでの大量虐殺の映像です。

よって程なく私は、至上なる神の意志という考えを ー それが同時におぞましく邪悪なはたらきをするとの理由から ― 受け入れなくなっていった。(遺稿「わたしの宗教について」より)

戦争の悲惨さと生存の偶然性を突きつけられるうちに、神の正義ではなく社会の正義へと関心を向けていきます。1996年に は広島・長崎への原爆投下が道徳上の不正行為だったと断言しています。
彼をそこまで言わしめた「ナチスの強制収容所」を体験した精神医学者に、『夜と霧』(※2)の著者V.E.フランクルがいます。

(※1)『正義論』(ジョン・ロールズ 著/紀伊国屋書店)(321.1 ロ)
(※2)『夜と霧』(V.E.フランクル 著/みすず書房)(946 フ)

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